何かをしたためてみたくて、ブログを書きます👒
人を意識するというのはどういうことだろう?
どういう心理が働くのだろう?
見てほしいから意識するのかな。
見て良いな!と思ってほしくて意識するのかな。
気に入ってほしくて意識するのかな。
相手に何かしてあげたくて意識するのかな。
自分が何て思われているか気になるから意識するのかな。
そうやって意識して何が手に入ったのかな?
評価だろうか。
賞賛だろうか。
否定だろうか。
孤独だろうか。
自分をもっと良くしようという鼓舞する気持ちだろうか。
恥だろうか。
悲しみだろうか。
比較して得たものはなんだろうか?
それは、
自分の存在を、認めるに至っただろうか?
作品は、いつから他人のものになったんだろうか。
他人に気に入られるための作品がいいのだろうか?
・・・・
すべての悩みを、私は一通り考えてみて
理解ができる。
でも、
私は神様の前で作品を描くようになったのは
まったく根本が違う。
「伝えたい」それが一番先だった。
相手がどう思うと関係なく
ただ「神様の愛と心情」を伝えたかったのだ。
そこからどういう反応が来るのかは考えもせず
続けていたら
少しずつ、少しずつ、大きくなっていった。
でも、そうすると
人を意識しはじめる。
反応を意識しはじめる。
それは終わりのない旅のように。
終わりのない欲望の連鎖のようで
まったく価値を見出さないということがわかった。
それでも人を意識し、評価を気にするならば、
自由ではなく、縛られているのだと思う。
神様のことを知ると、
今まで「あたりまえ」だった常識とぶつかるようになる。
本当の幸せは何なのか?
それは人が決めつけられることなのか?
すべてが同じだ。
「人ではない」
しかし、
伝えたい相手は人なのだ。
現代は、何か評価でもされないと、生きた心地がしないようだ。
見た目で判断し、
いいねで判断し、
かっこよさ、きれいさ、可愛さ、刺激のあるもの
それがいい!と思って見て、聞いて、拾って、捨てる。
私は、自分のことも、相手のことも、社会のことも
俯瞰して、見たい。
自分が心と思いと命を尽くしてやったことならば
どう思われてもいいと
自信をもって言えるだろうか。
「未練なく行ったなら
堂々としなさい。」
これは私がある日落胆した日に祈ったとき
心に聞こえた言葉です。
自信を持とう。
自分が信念をもって取り組んだすべては
堂々としたらいい。
ただ神様だけが、その人のすべての背景も、個性も、能力も
過去も現在も未来も見て、判断なさるのだから。
自分がいただいたものにただ感謝して生きたらいいのだ。
相手のものを見て欲してしまうなら、それは欲だと、御言葉でもおっしゃっていた。
そう思って、自分がこれまでもらったものを見てみたら
なんてまあ、幸せなんだろうなあ…✨
この記事を書く前、オヤビンのアニメの作画をしていたのですが、
なんだか幸せが湧き出てしまって、
その根本は何なんだろうといろいろ考えていたら
こういう文章が出てきました。
幸せだと言えることが、本当に幸せです😊